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 夏という言葉を耳にすると、ぼくは決まって夏休みがはじまったばかりの、あの眩しい日差しのことを思い出す。眩暈がするくらいの日光の照り返しを受けて育つ夏草の、あのむせ返るような黄緑色の匂いのことを思い出す。
 ぼくの家は一軒家で、夏になるとぼくの家の庭は、いつも短い緑の雑草でいっぱいになった。だからぼくは夏になると和室のベランダの窓を開け、日陰の畳の部屋に外の涼しい風をいっぱいに入れて、そのまま畳にごろんと寝転がって窓の外の青空を眺めるのだった。涼しい風がぼくの体を優しく通り抜けていき、窓にとりつけてあった風鈴が、風を受けてチリリンとさわやかに鳴る。風に乗って草の匂いが畳部屋の中に入ってきて、ぼくはその心地よさにそのまま眠ってしまいそうになる。
「おーい」
 不意に窓の外から呼ぶ声がして、幸せなひとときを邪魔されたぼくは思わず顔をしかめる。しかしまあ無視するわけにも行かないので、面倒くさがりながらもぼくはしぶしぶ外に顔を出した。とそこには、半袖の白いナイキのTシャツに、緑の東京ヴェルディの帽子を頭にかぶったカッちゃんが立っていた。いつもの格好だ。
「あ、カッちゃんおはよう。どうしたの? 今日遊ぶ約束とかしてたっけ」
「何だよおはようって。もう十時だぜ」
 カッちゃんは呆れたようにして言う。
「っていうか、そうじゃなくてだな。あのさ、お前海行きたくねぇ? 海」
「海?」
 ぼくの怪訝そうな問いかけに、カッちゃんは笑顔で頷く。


 ぼくらの住んでいる町には大きな森があって、その森のすぐ側にちょうどぼくたちの学校があったので、その森はぼくたち小学生の格好の遊び場になっていた。学校のPTAとかからは「危ないから入っちゃいけません」と言われていたけれど、別にそんなのは当然誰だって聞いちゃいなくて、ぼくとカッちゃんは自分たちで作った基地の中にたくさん私物を持ち込んで、休みの間中ずっと遊んだりしていたのだ。
 周りの木々は夏の風を受けてざわざわと鳴り、腐葉土の地面には、まるで模様のような木漏れ日がキラキラと描かれ、眩しげに揺れている。今日に限って、幸い基地にはぼくらのほかには誰の姿もなかったので、ぼくたちはしめたと思いながら基地のすみっこで二人うずくまり、こそこそと金の算段をしていた。
「……俺の貯金がお年玉合わせて全部でこれだけあるだろ。で、お前の方の貯金がこれだから、合計で、ええっと、さっきの計算した紙どこだっけ」
「その、下のやつじゃない?」
「あぁそっかこれだ。……で、とりあえず飯代で一人につき一食700円として、宿泊代こみでいくら掛かるかっていうとえーと、えー」
「なにしてんの?」
「うわっ!」
 ぼくらが話している途中で、急にカッちゃんの後ろから妹の由希ちゃんがひょっこり顔を出した。
「ゆ、由希! どどどっから入ってきたんだよ!」
「もうすぐお昼ご飯だからお母さんが二人呼んで来てって」
 由希ちゃんはカッちゃんの質問に構わず言う。それからやがてぼくたちの様子が気になったのか、こちらの方を覗き込んできて、
「ねぇ、二人でコソコソなに話してたの?」
「うっせえな、何でもねーよ」
 カッちゃんは答えながら立ち上がる。
「なんでー。おしえてよ」
「なにが教えてよだ、バーカ、ほら行くぞ」
「やだー! 康太のけちー! いやしんぼー!」
 由希ちゃんは怒鳴る。ちなみに康太というのはカッちゃんの名前だ。桂木康太だからカッちゃん。
「勝手に言ってろ、バーカ」
「バカじゃないもん!」
「まぁまぁ。……別に、少しくらいなら教えてあげてもいいんじゃないの?」
 ぼくは思わず、由希ちゃんを弁護してしまう。すると由希ちゃんは「やったー♪」とぼくの腕に抱きついて、
「ほらー松本くんも言ってんじゃーん、ねぇ教えてよー」
「松本、だめに決まってんだろ。こいつに教えるとすぐ母親に言うんだぜ」
 カッちゃんは怒ったように言う。母親、という響きに少しだけぎこちなさが残っている。
「ダメダメ、絶対だめだ。ほら行くぞ」
「言わないもん!」由希ちゃんは口答えする。「……ねぇねぇ、さっきやってたのってお金の計算でしょ? どっか行くの? 旅行?」
「家出するんだよ」
「あっ馬鹿っ!」とカッちゃんがぼくに叫ぶ。


「――ぼくとカッちゃんの二人で、自転車に乗って旅行に行くんだ。誰にも内緒で、何日間か。それで、じゃあまずはどこに行こうかっていう話になって、それでカッちゃんが『海に行こう』って。ここから一番近い海岸までは、だいたい自転車で五、六時間くらいの距離にあって、だから仮に朝九時に出発するとしても、休憩とかを全部含めたとしても最低夜までには絶対到着出来るでしょ? とりあえず海に着いたら、まずはどこか泊まれる場所を探して――ホテルとかでも旅館とかでもいいけど――そこで一泊して、それからまた次の目的地に向かう。『夏休みだから』って言えば大体の人は信じてくれるし、一応用心のために、ひとつの場所にはだいたい一晩くらいしかとどまらないから、多分そう簡単には捕まらない。それにお金も結構あることにはあるから、切り詰めれば、だいたい一週間は何とかな……らないかな? まぁ大丈夫でしょ」
 カッちゃんの家でそうめんをご馳走になったあとで、ぼくたちは再び基地に戻って由希ちゃんに作戦の説明をすることになった。由希ちゃんは地べたに座って真剣にぼくたちの話に耳を傾け、「ふーん……」とイマイチよくわからなそうに頷いた。
「あ、ねぇねぇ、由希も行きたい」
「あ? ダメに決まってんだろ」
 カッちゃんは由希ちゃんの言葉をばっさり切り捨てる。
「お前、そんな簡単に行けるわけねえじゃねえか。距離だってずいぶん遠いし、金の問題だってあるんだ」
「えー、何でよー」と由希ちゃんはふてくされる。「ていうか、どうして海なの? そんなのどこだっていいじゃん。もっと近くでも」
「ダメったらダメなんだよ、いいか」
 カッちゃんは由希ちゃんの言葉をさえぎる。
「そんな、そこら辺の近くまで行くだけーみたいなのだったら、そんなの、ただの遠出にしかなんねえだろ。もっとこう、『うわすげー俺たちこんな遠くまで来ちまったよー!』みたいな、そんな感動がほしいんだよ。分かるか、ロマンだよ。ロマン」
「……康太、バカ?」
「うっせぇな。殴るぞ」とカッちゃんは怒鳴る。
「殴れば? 殴ったらお母さんに言っちゃうもんねー」と由希ちゃんは言う。「ばーかばーか、康太のばーか。脳なしのへんちょこりーん」
 本当に殴った。
「あー殴ったー! いいもんね、言っちゃうもんね、お母さんに絶対言っちゃうもんねこのばか康太!」
「いい加減にしろこのバカ!」
 二人はまた口論を始め、ぼくが二人の仲裁に入ってようやくケンカが収まる。カッちゃんは由希ちゃんから離されてからも、まだ由希ちゃんの方を憎々しげに睨みつけており、由希ちゃんはカッちゃんに向かって、「いーっ」と舌を出していた。ぼくは二人をその場に座らせて、とりあえず気持ちを落ち着かせる。
「……ていうか、そもそも何で家出なんてするの?」
 しばらくして、ふと由希ちゃんに訊ねられる。そう言われて、思わず返答に困り、とっさにカッちゃんの方にチラリと目を向ける。カッちゃんは、「んなの決まってんだろ」と腕を組み、しかめっ面をして一言、

「カッコよさそうだからだ」

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