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「ただいま」
「おかえり。ご飯できてるわよ」
 洗面所で手を洗ってから居間に入ると、テーブルの上にはもう母さんの作った料理が並べられていた。キッチンの方は既に片付けられた後で、テーブルの方をよく見てみると二食じゃなくて一食分しかない。ぼくの分だ。
「今日遅かったわね」と母さんは言う。「あんまり遅くなっちゃだめよ、心配したんだから。今日まで休みだったからいいけど、明日から夏期講習なんだから、あんまり遊び呆けちゃだめじゃない。受験するんでしょ、ピアノやプールだってあるんだし」
「うん」
 答えながら、ついたままのテレビの方に目をやる。いつもと同じようなゴールデンのバラエティ番組が垂れ流しになってぼくの目の中に映っている。けれど、肝心の内容の方はまるで頭に入ってこない。無機質な笑い声だけがぼくの耳の右から左へと流れ出ていってしまっている。ぼくは何もかもうんざりして、思わず叫んでしまいたくなる。
「じゃあ、これからお母さんまた出かけてくるから」
 そう言って母さんはまた玄関に向かう。そういえば、気が付くと母さんはもう外出着に着替え終わっていて、それが母さんの雰囲気をまたさらによそよそしくさせる。
「食べたら片付けて、あとお風呂もう準備できてるから入ってね。お姉ちゃんもお父さんも今日帰ってこないから、今日あなた一人だけなのんだからね。あ、お風呂から上がったら、ちゃんと勉強するのよ、いい?」
「うん、いってらっしゃい」
 ぼくの声を聞いて、そのまま母さんはさっさと外に出ていってしまう。ドアが閉じる音がして、そのあとで開けっぱなしの網戸の外から少しだけ母さんの足音が聞こえ、それもやがてすぐに消えていってしまう。そしてその代わりに、今度はたくさんのセミの鳴く声が湧き上がるように耳の中に入ってくる。ふと、セミってこんなに夜鳴くもんだっけ、とぼんやりと思う。それからすっかり虚ろになっていた目をとりあえず現実に戻して、そういえば箸が止まっていたことに気付いてぼくは再びおかずの上の手を動かし始める。
 母さんは基本的にぼくのことについて何も聞いてきたりしない。ぼくが遊んで来たことなんかについても、特に何も聞かないし、学校のことも友達のことも、塾のことも成績のこと以外は何も聞かない。多分、あの人は、プライバシーという言葉の意味を勘違いしている。カッちゃんは、ただ「かっこよさそうだから」と言っていたけど、きっとこれはぼくにとって本当の家出なのだ。ぼくはきっと怒られる。だけどそんなことは充分承知している。だってそうされること自体が目的なのだから。


 十分くらい遅れて、ぼくはようやく指定の集合場所に到着した。近所の神社の裏、基地のある森の入り口だ。既に先に到着していたカッちゃんは、ぼくに向かって「遅い!」と怒鳴った。
「ごめん遅くなって。いろいろ準備に手間取ってさ」
「大体、何なんだよその荷物は」
「え? 着替えとか」ぼくは答える。「何か、いろいろ入れたらこんなになっちゃったんだけど。まずかったかな」
「あのなぁー……」
 カッちゃんは腕を組んで声を張り上げる。
「お前なあ、そもそもこれから何時間走ると思ってんだよ。ていうか普通に考えて、どっから来たか分かんない小学生がそんな大げさなの背負ってたら怪しまれるにきまってんだろ。もっとこう、必要最低限のものだけを、選りすぐって持ってくればいいんだよ。どうせどっかに泊まったってそんな三着も四着も使わねーって」
「あー、なるほど……」
「康太ーっ!」
 急に叫び声が聞こえて、ぼくたちは顔を見合わせる。振り向くと、由希ちゃんがピンクのマウンテンバイクに乗ってぼくらの後ろに立っていた。
「由希!」とカッちゃんが叫ぶ。「なっ、何でここにいるんだよ! バカ、帰れ!」
「由希も一緒に行く!」
「はぁっ?」
 カッちゃんは思わずスットンキョウな声を上げる。
「康太がいなくなったって分かったら、由希も共犯にされて絶対お母さんに怒られるもん。だから由希も一緒に行く。康太も巻き添え。連れてかないならお母さんに言っちゃうんだから」
「は、いや、意味分かんねぇよ」
 カッちゃんは理解できないといった口調で由希ちゃんの言葉を否定する。
「そんなわがまま通用するわけねぇだろ、金はどうすんだよ」
「お金ならちゃんとあるもん。貯めてたお年玉。ほらっ」
 由希ちゃんに褐色の封筒をズイと突き出され、思わずカッちゃんは何も言えなくなる。ぼくが受け取って封筒の中身をそっと確認してみると、確かに中には歴史の偉人たちが何枚か狭そうにしながらひしめき合っていた。
「……お金があるならぼくは別にいいと思うけど」
 ぼくがそう言うと、カッちゃんはさらに苦虫を三匹ほど噛み潰したような顔をして、やがて仕方なさそうに、
「――足手まといにならないんだったら、別に連れて行かないこともない」

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