Chapter 6

 それから、いつもより早めに自宅に帰ってくると、桃谷さんは仕事からまだ戻っていなくて、まあそうだよなと思いながら服を着がえ、風呂でも洗いに行こうとしていた時に、ポケットにしまいっぱなしだった携帯電話が鳴りだした。取ってみると福島からで、何、と電話に出て野田が尋ねると、福島は、「ねえねえ、これからそっちに鍋しに行くけどいいよね?」と訊いた。
 はぁ? と野田が思わず呟くと、福島は、ほら前言ったじゃん、桃谷さんにも了解もらったからさ。ね、いいだろ、と続け、そこまで事前に根回しされていると野田は何も言えなくなってしまって、仕方なく台所に向かっていき、あちこち戸棚を開きつつ土鍋を探しながら、いいけど、ウチいま材料とか何にもないぞ、と答えると、あー、それなら今買ってるから大丈夫、と福島に言われて再び耳を疑い、いや、お前そもそも今どこにいんの、と聞き返すと、えっといま映美ちゃんと一緒にお前ん家の近くのスーパーで買い物してるんだよ、あ、映美ちゃんって前話したでしょ、ちょっと前に知り合った女の子なんだけど、と福島が嬉々として話すので、野田としてはハイハイと頷くしかなかったのだが、でさー、今日お前ん家行こうと思って、それでさっき桃谷さんに電話してみたんだけど、したら「来てもいいけど、材料は買ってきてね」って言われて、それでしょうがなく俺がそういうの一通り買ってくことになってさ。
 と、いうことは、もともと俺に有無を言わせようという気すらなかったのか、と思いながら、もう半ばあきらめたように「あっそ……」と答え、そこから電話は鶴橋さんに代わられ、あの、すみません何か押しかけるみたいな形になっちゃって、福島くんとも先に電話した方がいいとは話してたんですけど、とかなんとか弁護されてしまい、あーいや、まぁどうせいつもの事ですし、と野田が返すと、それでも鶴橋さんはどうもすみませんと最後まで謝りながら電話を切った。
 携帯を閉じてから、そういえば何鍋なんだろう、せっかくなら久しぶりにもつ鍋がいいなあ、とかどうでもいいことを考え、で、俺は今何をしようとしていたんだっけ、とふと足を止めて、また福島のせいでペースを乱されてしまったことを野田はひとり嘆くのだった。


 窓の外ではいつの間にかしとしとと雨が降り始めていて、件の電話があってから30分経ち、さらにそれから1時間たっても相変わらず桃谷さんも福島も鶴橋さんも帰ってこないので、怪しんで福島の携帯にかけ直してみても、電源が入っていないか電波の届かないところに、と機械音声が繰り返されるばかりで、そういえば福島のやつ傘持ってったのかな、と野田は思い、あの電話の後ですぐに鍋セットも一通り台所の奥から出したし、風呂も沸いたというに、と心の中で呟きながら、更に激しく窓に打ち付けてくる幾多の雨粒をカーテンの隙間から眺め、妙に手持ち無沙汰になってしまったので、仕方なくソファに寝転がってテレビをつけ、それから、一体どれくらい経っただろうか、ドアのチャイム音でうつらうつらとしていた意識を戻して、なんだ、と思っていると、再び間延びしたチャイムが部屋の中に響き、そこでようやくハッとして起き上がって、廊下をどたどた走りながら慌ててドアを開け、遅い、今まで何してたんだ、と言おうとして、それからすぐに口をつぐんだのは、その玄関先に立っていたのが、福島でも鶴橋さんでも桃谷さんでもなく、雨でずぶぬれになった従弟の亮太くんだったからだった。
 亮太くんは高校の制服なのか、すっかり水にひたった深緑のブレザー姿で、背は野田より頭ひとつ分くらい低かったのだが、体系は野田とそっくりな位にでっぷりとしており、肩で息をしていた亮太くんは、その丸い瞳で上目づかいに野田のことを見ると、ぎくりと体を硬直させてしばらく見動きすらしなかったのだが、やがて「あ。あの……」と小さな声で言った。その声は低かったが、電話で一度聞いた時と違い、まだ声変わりする前の面影がわずかに見てとれ、野田は、ただ、驚きあきれるばかりだった。目を丸くしながら、「ど、どうしたんだよ、いきなり!」と喋る以外に、言うべき言葉が見つからなかった。
 外はすっかりざあざあ降りの雨で、肌寒く、とりあえず野田は亮太を家の中に入れてドアを閉め、玄関の前で待たせたまま、風呂場からバスタオルを持ってくると、亮太の雨にぬれた頭をふいてやり、亮太は「だ、大丈夫、乾くから……」と言ったのだが、乾くころには風邪ひいちまうよと野田は思い、それからそのタオルをそのまま渡すと、部屋まで戻り、簡単な着替えをそばにあったものから適当に取ったあとで、また玄関まで帰ってきた。亮太は、水を吸ったその服をタオルでいそいそと拭っているところで、戻ってきた野田を見ると彼は顔をあげて、それから「あ、あの、ごめんなさ……」と言いかけた瞬間に大きなくしゃみを一つした。
 ごめんなさい。その、連絡せずいきなり……、と言って、亮太は再びうつむき、また二回も続けてくしゃみをするので、野田はすっかり呆れて、まぁ、とりあえず上がってよ、靴脱いで、ちょうど今お風呂沸いてるし、入ってきたら?と勧め、それでも亮太が躊躇していると、突然後ろのドアが勢いよく開いて、「たっだいまー!」と大きな声を張り上げ、スーパーの袋を両手に提げた福島がタイミングよく帰ってきて、玄関に足を踏み入れようとして、その見知らぬ少年と場の異様な雰囲気に気づいて思わず立ち止まってしまい、そこに今度は鶴橋さんも後ろから入ってきて、「福島くんどうしたの? 入らないの?」と言いつつその背後から中の様子を覗き込んだので、同じくその妙な状況を目にし、四人はお互いに顔を見合わせて、その何とも言えない沈黙にしばし戸惑っていた。


 桃谷さんが帰ってきたのはそれから少し経ったあとで、スーツ姿に鞄を提げてリビングに入ってきた桃谷さんは、コタツ机の上に用意してある鍋セット一式の周りに座りながら、静まりつつ微妙にそわそわしている三人を見つけ、さらに風呂の方では誰かが使っている水の音がするので、いつもにこにこして細めている眼をさらに細め、「な、なんだ、すごいなー」と一言つぶやいた。
「何かあったの?」
「い、いや、なんか、俺の従弟が、急に雨ん中でやってきたんですよ。いま風呂に入ってて」
「いとこ? ……あぁ、この前携帯で電話してきた子?」
「はい、なんか、よく分からないんですけど、すごい思いつめたような感じで、それで何なんだろうって思ってたんですけど……」
「ふぅん……。事情はまだ何も聞いてないの?」ジャケットを脱ぎながら、桃谷さんはあくまで冷静だった。「どれぐらいの子? 連絡とか、事前に来なかったの?」
「あ、やべ」
 連絡、という言葉で野田は、まだやろうとしてやっていなかったことを思い出して、
「あの子の家に連絡するの忘れてた。何があったか分かるかもしれないし」
「あーそうだねえ、そうした方がいいかも?」
「お、おいちょっと待ってよ!」
 急に。
 会話が中断され、見ると話の流れを切ったのは、さっきから黙ってばかりいた福島で、
「……よく分かんないんだけど、あいつ、家出なんじゃないの。だったらもう少し様子見た方がよくね?」
 と言い、でも、と今度は隣の鶴橋さんが口を挟んで、
「家出だとしても、とりあえず連絡はしないとまずいと思うよ? むしろ家出ならなおさらでしょ。家族の人も心配してると思うし」
「いやいやいや、親に心配させるのが、家出の目的じゃん。せっかく家出てきたやつにさ、そういうことするのは酷だって。あいつ雨ん中で傘もささずに一人でこんなところまで来たんだぜ。あいつの気持ちも分かってやれよ」
 福島は、かつての自分の姿とだぶるのか、あくまで亮太を弁護するつもりでいるらしく、いや、つーかまだ家出だって決まったわけじゃないし、と野田は言うのだが、しかし、まあそう言われるとふつうに遊びに来るにしては時間帯にしろ恰好にしろ場違いなのは確かで、それを考えると、福島の「家出」という意見もなかなか鋭いところがありはした。それに、福島自身の心境もまあ理解できないわけではなく、学生の頃は何かあるたびに、しょっちゅう助けを求めに野田の家に押し掛けてくるようなヤツだったので、本人も色々と共感するところもあるのだろう……とは思うのだが、しかしそんなことを言いはじめたなら、福島だって亮太の味方に回るあまり、彼の家族の気持ちを何も考えちゃいないのではないか、と野田がぶつぶつ思っていると、じゃあお前は亮太くんが風呂から上がったら、すぐにこの家から追い出すって言うんだな、あのどしゃ降りの中、と福島は言い、それは……と思わず口ごもってしまった。

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