やさしい子供

 そういえばその日も雨だったように思う。

 小学生の時だ。休み時間に教室の窓を眺めていると、外に降っている雨よりも、窓についたたくさんの水滴がジグザグに他の水滴を巻き込みながらつたっていくのに目が行って、何をするでもなく、机に頬杖をつきながら、それをぼうっと見つめてしまっていたのをおぼろげに記憶している。
 学校が終わって、友だちとみんなで帰る途中だった。おれは学堂に行っていたから、もしかしたらその帰りだったかもしれない。みんなで傘をさしながら、ひとりの一年生をからかっていじめながら帰ったのだ。そいつはでぶで、ちびで、運動神経もにぶく、おまけに、すぐ泣くやつだった。おれは二年生だったし、まわりも一年か、二年かだったと思う。みんなでそいつの持ち物を、代わりばんこで取り上げては、長靴でぴしゃぴしゃと水溜りの上を跳ねまわって、そのたびに、返して、返してよぉ、とそいつは言い、それが可笑しいので、悪ふざけがいつまでたっても終わらないのだった。みんな、と言ったけれど、おれだってその中の一人だった。あげくの果てにそいつがびーびーと泣きだして、みんなが面白おかしくふざけているなかで、あんまりにもそいつが嫌がって泣いているので、おれは友だちの輪のなかで、今更のように我に返ってしまい、そこから良心の呵責があって、ひとりで何も言えなくなってしまった。それから、雨の中でみんなと別れた後、おれはそいつと二人で、住宅地の中を抜ける家までの道を、傘をさして歩いた。おれとそいつは同じ団地の同じ号棟だったのだ。
 そいつの名前は翔太といった。
 おれは、翔太と隣どうしで歩きながら、「ごめんな。もう泣くなよ」と言った。翔太は、泣きやまなかった。それどころか、おれの言葉を聞いてさらにぐずぐずと嗚咽する声をもらした。さっきまでいじめていたのに、みんながいなくなってから急に態度を変えるなんて、ちゃっかりした奴だと思われただろうか、とおれは思ったが、翔太はずっとおれの隣から離れずにただ泣いていた。おれは、たしかに翔太はかわいそうだけど、でも、やっぱりいじめられる方だって悪いよ、とつい思ってしまった。子供用の黄色い傘を差しながら、ぐすぐすと泣く翔太の姿は確かにかわいそうなのだったが、でも翔太にしても、学堂のおやつの食べ方はきたないし、みんなの前でも構わずすぐだだをこねるし、やる事がいちいち常識知らずなので、だからみんなにいじめられるんじゃないか、とおれは思った。家が近くなってきて、翔太はようやく泣きやんだ。「……ごめんな、悪かったよ」と、おれは言った。


 翔太は、その年の春にうちの号棟へ引っ越してきた一家の子供なのだった。だから今にして思えば、きっとおれ達みたいにいじめてくる奴ら以外に、一緒に帰る友達が当時はいなかったのかもしれない。翔太の家が来る前には、おれが保育園生のころ一緒に遊んでくれていた、小学生のお兄ちゃんの一家が住んでいたのだったが、その家が引っ越して行って、代わりにやってきたのが翔太の家だった。
 翔太の歳はおれの一つ下だったので、新学期が始まる直前に、翔太のお母さんが、ねぇ木山くん、翔太と小学校に一緒に行ってくれない?とおれに頼んできた。学校の始まる前、友だちの家に遊びに行くために団地の階段を下りてきたおれに、たまたま通りかかった翔太のお母さんが声をかけてきて、そう言ったのだった。うちの家は五階で、翔太の家は一階だったからよくすれ違ったのだ。翔太のお母さんは仕事帰りなのか、仕事カバンを下げグレーの女性物のスーツを着ていた。メガネをかけており、髪にウェーブがかかっていた。言われた当のおれは、一年生の頃からずっと渋谷という別の友だちと待ち合わせをして、一緒に小学校に通っていたので、どうしようかと思ったのだが、その場では断りづらかったのもあって、まぁいいかと思い、うん、いいよ、もう友だちと一緒に行ってるけど、それでいいなら……と答えてしまった。するとおばさんは、ほんとに? ありがとう! とうれしそうに言った。


 それから、おれは翔太が通学路を覚えるまで、その渋谷という友達と三人で一緒に小学校に通い、翔太が通学路を覚えた後でも、変わらずその三人で学校に通い続けたのだった。その他にも、翔太が休んだ時にはおれが連絡帳を代わりに持っていったり、配られたプリントを持って帰ってきて渡したりした。翔太は、太っていてちびだったが、風邪をひいてよく学校を休んだ。よく寝坊もしたし、朝に家へ迎えに行ったりすると、パジャマ姿で、口の周りに食パンのかすをつけたまま、寝ぼけまなこでどたばたと準備をしているのを、よく見たりもした。
 翔太の家にはゲームがたくさんあった。翔太は一人っ子だったのでそのせいもあったのかもしれない。その頃はスーファミのソフトがひとしきり出たあとの頃で、翔太は64まで持っていたので、おれは翔太の家に入りびたっては、64やスーファミで対戦をずっとやったり、ソフトを何本も借りたりした。そして、これがまた翔太はゲームの腕がめっぽう強いのだった。どうやら翔太の父親もゲームをするという話で、よく対戦なんかもしているらしかった。おれは、翔太が3Dのマリオを遊んでいるのをその丸っこい背中の後ろでぼーっと眺めたり、「木山くんスマブラやろ?」と翔太がおれを誘うのに、しぶしぶ応じたりした。おれはゲームは好きだったが、正直別に上手いわけではなかったのだ。翔太は、おれと遊んでいるときは人懐っこくしゃべり、よく冗談も言った。
 日も暮れて、おれがうちに帰るときになっても、翔太は別におれを玄関まで送るなんて常識的なことはしないので、そこもまた翔太なのだと思った。明かりのついた玄関でおれがかかとを踏みつけっぱなしのシューズをごそごそ履いていると、また仕事帰りの翔太のお母さんが、ちょうどドアを開けて帰ってきた。翔太のお母さんは、おれが玄関にいるのを見ると、あら、とにこやかな表情になった。お邪魔してます、と帰りがけに言うのもなんだかおかしかったので、「あ、おばさんお邪魔しました」とおれが言うと、「もっとゆっくりしていけばいいのに」とおばさんも優しく答えたのだが、うちもお母さんがもう家に帰ってきていたので、おれは照れながらおばさんにそう告げた。
「木山くん、いつも翔太と遊んでくれてありがとうね」とおばさんは言った。
「えっ」
「翔太、まだ友だち少ないから、遊び相手に木山くんがいてくれてホントに助かってるの。また遊んであげてくれる?」
 おれは、そう言われてちょっと困ってしまった。別に、俺は遊びたいから遊んでいただけであって、遊んであげている、のかどうかは、よく分からなかったからだ。
「はい、また来ます」と、少し迷いながらおれは言った。おばさんはありがとうねと言って、帰るおれを見送ってくれた。
 玄関を出ると、団地の外はすっかり日が暮れており、階段の蛍光灯がもう点いていて、小さな蛾が飛び回っていた。空の向こうだけがぼんやりと桃色がかっていて、それももうすぐ紫色の雲に包まれようとしている。おれが階段を上ろうとすると、翔太の家の扉がまた開いて、今度はひょっこりと中から翔太が姿を現した。
「木山くんばいばい」と翔太が言った。
「おう。またな」
「ばいばーい」
 翔太は八重歯を見せながら笑って、ひらひらと手のひらを振った。


 翔太は、あの雨の日のことをまだ覚えているだろうか? とおれは思った。なんのそぶりも見えないところを見ると、もう気にしてはいないようにも見えたが、本当のところはどうだったのだろうか? そりゃ、子どものからかい遊びだし、いちいち気に留めるものじゃないのかもしれなかったが、でも、おれは翔太にとって、変わり身の早いやつに見えていやしなかっただろうか? おれの良心の呵責をあいつは見抜いていたのでは?
 遊んであげてる、のは、一体どっちの方だったんだろうか?
 でもその時おれは、瞬時にそんなことを考えたわけではなかった。ただもやもやとした整理しきれない感情が、ふっとおれの頭をよぎっただけだった。おれは翔太に手を振って返すと、階段を一つ飛ばしにしてぴょんぴょんと駆け上っていった。


 それからおれと翔太は、翔太の家が隣の県にまた引っ越してしまうことが決まるまで、ずっと一緒に通学し続けた。おれが翔太の家に遊びに行ったり、翔太がおれの家に遊びに行ったりして、団地の階段をのぼったり駆け下りたりをくり返したりするのも、おれが小六で、翔太が小五になるまで、ずっと続けられた。
 離れるのは悲しかったが、おれも翔太も、だだをこねて泣いたりするほどもう小さくはなかった。ただ相変わらず翔太はでぶだったし、ちびだった。「またいつか会って遊ぼうぜ」とおれは言い、「電話するから」と翔太も答えた。でも、電話はしたが、結局会って遊ぶことはなかった。年賀状のやり取りなんかも最初はしていたが、そのうちに、いつの間にか連絡も途絶えてしまっていた。子供の約束なんて、だいたいそんなものだ。


 そして、つい最近になってその翔太と再会したのだ。
 おれは大学生になっていて、その時はちょうど夕方で、おれは駅前のコンビニでバイトの途中だった。レジカウンターの中で、おれがひとり商品の棚やコンビニ内の客の様子をぼんやり観察していると、入り口の自動ドア前で売っていた傘を持った客がレジへとやってきて、それが翔太だったのだった。
 なんだか見慣れないDQNがおれをじろじろ見ているなぁと思ったら、そいつが「木山くん? 木山くんだよね?」とおずおずと言い、おれが怪訝な顔でよくよく観察してみると、それはまぎれもなく、小学生のころとは見違えるような外見になった翔太だった。まず第一に、すっかり痩せていたし、それにちびじゃなく、背も高くなっていた。そりゃあ小学校の頃からずっと会っていなかったのだから、変わっているのも当たり前なのだったが、でもそれにしても、と思わずにはいられなかった。服も特に何の変哲もないシャツと細いズボンのはずなのだが、しかし着ている本人のスタイルがいいせいで、自然と着こなせているというか、むしろ変に小洒落ていなくて好印象を与えていた。
 呆然としている俺に向かって、「俺のこと、覚えてる?」と翔太が言った。
「……し、翔太だろ。そりゃ覚えてるよ。なんでこんな所いんの?」
「俺大学入ったからさ、この近くに独り暮らしすることになったんだ。そんでもしかしたら木山くんと会えるかもって思ったんだけど、こんなに早く会えた!」
「お前、なんか、カッコよくなったな……」とおれは言った。しかし当のおれはと言えばセブンの店員だったし、実際大学に入ってから高校のころと比べて実に20s近く太っていて、なんとも見る影もないのだったが、翔太は、俺の言葉に照れるように笑って、中学のときにバスケ部入ったらいつの間にか痩せてたんだよね、と言った。北川悠仁みたいなやつだとおれは思った。
 翔太は、「俺この近く住んでるから、きっとまた来るよ。んじゃ!」と言って、店のテープのついた525円の傘を取ると、手を振りながらコンビニの外に出て行った。外は雨が降っていて、歩道を傘を持って歩く人に交じり、翔太はビニール傘を差して駅のほうへ駆けていった。翔太の姿を目で追って、次の客の商品のバーコードを読み取り機に通しながら、おれは、ああそういえば、あの日もこんな雨の日だった気がするなぁ、と、ふと思った。


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